<   2017年 07月 ( 14 )   > この月の画像一覧




     わたしの大和『古寺巡礼』
     大和の古寺を訪ねあるく人はなにを期待して巡礼するのだろうか。
     ある人は物見遊山、ある人はかの寺院のかの仏像に手を合わせるため。またある人は、何か思うところがあって古寺巡礼
     を幾たびもくり返すのであろう。
     いわずとも日本全国いたる所に古寺はある。平安の都であった京都にも誰もが知る古寺が数え切れないほどに存在するし、
     一度や二度は行ったことがあることと思う。であっても、心に残る仏像、印象に残る建物はそうはないであろう。わたし
     には僅かしかない。むしろ庭園の美しさばかりが印象に残っている。

     いったい大和の古寺の魅力は何であろうか。
     仏像のお顔だちが違う、建物が違う、寺院に向かう通りの景色が違う。物さびた築地がある。重厚な造りの民家がある。
     屋根瓦の厚み・形・色合いが違う。田畑を見ても、うねる山並みを見てもどこか懐かしい感じがして胸をうたれる。
     それは電車から眺める景色であってもそうである。
     しかし、いつまでもそれが残っているわけでは無い。わたしが見聞きしているたかだか五六十年の間に、日本の景色が、
     建物が、科学が、(写真機が)、そして人々の精神までが大きく変化してしまった。便利で快適な生活、それは進歩には
     違いないが、何か大きなものを過去に置き忘れてきてはいないだろうか。
     次に予定している“シリーズ“でもそれを考えてみたい。
     
     大和は日本人にとって特別なところなのだと思う。「心のふるさ」とは言うけれど、実はもっと奥深いところに答えが
     あるのだろう。それが今のわたしには分らない。大和とは何か、日本人とは、それを探っていきたいと思っている。




                              境内松林

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       堀辰雄が寝そべって、講堂の片隅にころがっている仏頭みたいに「古代の日々を夢みていたくなる。」
       といったのはこの辺りだろうか。





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                             会津八一 歌碑
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おほてらの まろきはしらの つきかげを

          つちにふみつつ ものこそおもへ



鐘 楼

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はす池 小道の右手の植込みは西室跡




本 坊

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右手の塀が応量坊





応量坊

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本坊前の小道

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本坊築地

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食堂跡

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                            東門より見る境内

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      道から右へ折れて、川とも呼びにくいくらいな秋篠川の、小さい危うい橋の手前で俥を下りた。
      樹立ちの間の細道の砂の踏み心地が、何とはなくさわやかな気分を誘い出す。
      道の右手には破れかかった築泥(ついじ)があった。なかをのぞくと、何かの堂跡でもあるらしく、
      ただ八重むぐらが繁っている。
      もはや夕暮れを思わせる日の光が樹立ちのトンネルの向こうから斜めに射し込んで来る。
      その明るい所に唐招提寺があった。
      『古寺巡礼』より。 和辻哲郎著




九月(ながつき)廿日のころ、ある人に誘はれ奉りて、明くるまで月見ありく事侍りしに、

おぼしいづる所ありて、案内せさせて入り給ひぬ。

荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、しのびたるけはひ、いとものあはれなり。

       
      :九月二十日のころ、ある人にお誘いをいただいて、夜明けまで月見をして歩いたことがあった。
       その方は、ふと思い出された所に立ち寄って、取り次ぎを請わせてお入りになった。
       荒れた庭に露がいっぱいおりていたが、そのあたりに、わざわざたいたものとは思われぬ香りの匂いがしっとりと薫っており、
       世を避けて静かに住む様子が、実に趣深かった。
        『徒然草』第三十二段より





 







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by kame-fukusima | 2017-07-31 08:01 | 古寺巡礼







講堂(国宝・奈良時代)

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講 堂

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講堂は、和上が唐招提寺を開創するにあたり平城宮東朝集殿を朝廷より賜り移築したものである。
平城宮唯一の宮殿建築の遺構であり、すこぶる貴重な存在という。入母屋造・本瓦葺





                            鼓 楼(国宝・鎌倉時代)

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本来は経楼とみられる。一階に和上将来の仏舎利を安置しているところから舎利殿とも称される。右側の建物は礼堂。







礼堂・東室(重文・鎌倉時代)

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南北に長い建物で、従来は僧侶の起居した僧坊であったという。南半分が、西側の舎利殿を礼拝するための礼堂の造りになっている。






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礼 堂

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馬道(めどう)

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奥の建物は講堂。馬道を境に北が東室、南が礼堂になっている。






東室・礼堂

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                         建物の中央右側に馬道が見える。







雪のおもしろう降りたし朝(あした)、人のがり言ふべき事ありて文をやるとて、

雪のこと何ともいはざりし返事(かへりこと)に、

「この雪いかが見ると、一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるる事、

聞きいるべきかは。かへすがへすくちをしき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。

今は亡き人なれば、かばかりの事も忘れがたし。

『徒然草』第三十一段

       :雪が趣深く降った朝、ある人のもとに、所用のために手紙を送った際、
        雪のことに何もふれなかった。その返事に、
        「この雪をいかがご覧ですかと、一言のあいさつもないような、そんな粗野なお方の仰せを
        受け入れるわけにはいきません。それにしてもがっかりさせられる御心の浅さです」と言って来たのは、おもしろかった。
        今はなき人の思い出なので、この程度の事も忘れがたい。





 

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by kame-fukusima | 2017-07-30 09:51 | 古寺巡礼





校倉Ⅱ Azekura



                            経 蔵(国宝・天平時代)

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現存する日本最古の校倉









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経蔵と言われているが元々は米倉であった。柱は無く校木の積み重ねの壁構造形式という。
屋根の重みで風雨から身を守っていたのであろう。
建築用材は良質のものではないという。風水害の多い高温多湿の日本では高床式の校倉は最良の選択だったのだろう。









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鼠返し

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下部に見える「への字」形の板は鼠返しのようだ。米倉ならではの造りである。











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校木は一見すると三面体のようだが、大きく面取りした面を入れると六面体ともいえる。










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     人のなきあとばかり悲しきはなし。

     中陰のほど、山里などにうつろひて、便あしく狭き所にあまたあひして、

     後のわざども営みあへる、心あわたたし。

     日かずのはやく過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。

      『徒然草』第三十段より







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by kame-fukusima | 2017-07-29 20:51 | 古寺巡礼




校倉Ⅰ Azekura



                         宝蔵 - 経蔵(国宝・天平時代)

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境内の東方に天平時代の校倉(あぜくら)が二つ並んで建っている。左側の大きい方が宝蔵、右側の小さいほうが経蔵である。
経蔵は、この地が鑑真和上に下賜される前、新田部(にたべ)親王の邸宅であったときに既に米倉として使用されていたと伝える。
驚くことに正倉院(756年)の校倉より古い建物という。現存する最古の校倉である。









                               宝 蔵

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宝蔵の内部は中二階式の構造。これは正倉院の校倉などと同様に昔の倉の形式である。当初、切妻造の屋根は寄棟造に改造されたという。










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唐招提寺を訪れる楽しみは二つある。ひとつは、南大門をくぐると優しく出迎えてくれる天平の甍の覆いをかぶった金堂である。
いくど見ても新鮮なおどろきがある上、八本の円柱は思わず掌で撫でたくなるほど懐かしい感じがする。
ふたつ目は、校倉である。天平時代の校倉があるというだけで貴重であるが、それが二棟残っているというのであるから驚くほかない。
残念なことに触れることはできない。近寄りがたい雰囲気はあるがどこから見ても絵になるのは嬉しい。
金堂ばかりが脚光をあびるけれど、黒漆塗りの宝石箱のような宝蔵・経蔵がたまらなく愛しい。1300年前の木材が今なお息づいている。










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しずかに思へば、よろづに過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。
人しづまりて後、長き夜のすさびに、なにとなき具足とりしたため、
残し置かじと思ふ反古(ほうご)など破(や)りすつる中に、亡き人の手習ひ、
絵かきすさびたる見出でたるこそ、ただその折のここちすれ。
『徒然草』第二十九段より

            :しずかに物思いにふけると、何事につけ、過去へのなつかしさで胸がいっぱいになる。
             人が寝しずまってから、長い夜の手すさびに、気のむくままに道具類を整理し、
             保存する必要のない紙ほごの類を破りすてる時に、故人が手習いに書いた
             文字やたわむれに描いた絵などを見つけると、ありし日にもどったような感じがする。






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by kame-fukusima | 2017-07-28 19:21 | 古寺巡礼





                               金 堂

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       金堂の石段の上に登って、扉の一つに近づいた。西日が丁度その古い扉の上にあたっている。
       そしてそこには殆ど色の褪めてしまった何かの花の大きな文様が五つ六つばかり妙にくっきりと
       浮かび出ている。そんな花文のそこに残っていることを知ったのはその時がはじめてだった。
       『大和路・信濃路』より 堀 辰雄著

       この本を読むまでは扉に花文があることを知らなかった。よほど注意していないと見落とす。







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  中央に本尊の盧舎那仏座像、左右に千手観音・薬師如来の巨大な立像。これらをめぐって梵天・帝釈天・四天王立像の御法神がある。
  堂内上方に描かれた飛天、菩薩やほかの彩色文様が天平の雰囲気をかもし出している。壮観な意匠に圧倒される。
 「仏像は語るべきものではなく、拝むものだ」というが、どういうわけか、私にはこの寺の仏像にはさほど心をひかれなかった。
  きっと信仰心が足りないせいだろう。









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扉の外側に華文様が描かれている。天平のまぼろしか・・・






組 物

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金堂板扉

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丸い凸部は釘隠と思われる。







連子窓(正面)

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金堂東側面

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 連子窓が三箇所ある。








金堂(裏側)

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                             連子窓と扉のみ




諒闇(りょうあん)の年ばかりあはれなる事はあらじ。

倚廬(いろ)の御所のさまなど、板敷を下げ、葦の御簾を掛けて、布の帽額(もかう)あらあらしく、

御調度どもおろそかに、皆人の装束、太刀・平緒まで、ことやうなるぞゆゆしき。

  諒闇:天皇が父母またはこれに準ずる人の喪に服する期間
  倚廬の御所:諒闇の初めに天皇が籠られる仮の御所


         :諒闇の年ほど、感慨深いことはあるまい。
          倚廬の御所のさまなどは特にそうである。板敷を低く造り、葦の御簾を掛け、布の帽額はそまつで、
          道具類も質素で、人々の装束、太刀・平緒までいつもと違っているのは、重々しい感じがする。
          『徒然草』第二十八段





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by kame-fukusima | 2017-07-27 05:00 | 古寺巡礼





大海を思わせるような大きい軒端の線のうねり方、― 特にそれを斜め横から見上げた時の力強い感じ、― そこにはこの堂を
はじめて見るのでないわたくしにとっても全然新しい美が感ぜられたのである。
・・・・・・軒端の線が両端に至ってかすかに上に湾曲しているあの曲がり具合一つにも、屋根の重さと柱の力との間の安定した
釣り合いを表現する有力な契機がひそんでいる。天平以後のどの時代にも、これだけ微妙な曲線は造れなかった。
そこに働いているのはすぐれた芸術家の直感であって、手軽に模倣を許すような型にはまった工匠の技術ではない。
『古寺巡礼』唐招提寺金堂より 和辻哲郎著





                            金堂(国宝)

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天平時代の金堂と講堂が現存するのは唐招提寺だけである。













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奈良時代(8世紀後半) 寄棟造・本瓦葺













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唐招提寺を訪れるのは今回が二度目である。一度目は六七年前、年の暮れも迫る寒い日であったように思う。
長年の願いが適い、南大門を入ると金堂が優しく迎えてくれたように感じたものである。人影もまばらであった。
今回は主に写真撮影が目的だったので、参拝もそこそこに鞄からカメラを出し撮影を始めたのはよいが、いささか興奮
気味なのと被写体に圧倒されてサッパリ構図が決まらない。境内を二巡り三巡りしたあたりから漸く落着きを取戻し、
撮影に没頭することができた(天平期の建造物おそるべし)。

前回は、コンパクトデジカメを用いて気負いもなく二三十枚は撮影しただろうか。
今回は、同様にコンデジとボディにダメージのあるd3300にオールドレンズ(Ai2.8/24)を試してみた。
オールドレンズ(とはいってもは40年前のものか)の絞りをf8、被写界深度は遠景用に深めにしてテープで固定。
露出は撮影後の液晶画面を見て手動で適当に・・・
その結果分ったことは、天気の良い日は期待以上の写りだが、曇りや雨の日にはボヤッとした写りで入門機には
使いこなしが難しいと判断せざるを得なかった。色味はアンバーがやや強めに出るように思う(参考までに)。












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西側面

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東側面

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御国(みくに)ゆづりの節会おこなはれて、剣璽・内侍所(けんじ・ないしどころ)わたし奉らるるほどこそ、限りなう心ぼそけれ。
新院のおりさせ給いひての春、詠ませ給ひけるとかや、
殿守(とのもり)のとものみやつこよそにしてはらはぬ庭に花ぞ散りしく
今の世のことしげきにまぎれて、院には参る人もなきぞさびしげなる。
かかる折りにぞ、人の心もあらはれぬべき。
『徒然草』第二十七段

        :御譲位の節会が行われて、剣・璽・鏡の三種の神器をお渡し申し上げる折は、このうえなくさびしいものである。
         新院が位をお退きになった年の春、次のようにお詠みになったという。
         主殿寮の役人たちが、無視して掃除をしないこの御所の庭に、落花が一面に散り敷いている。
         新しい世の政務が忙しいのにまぎれて、新院の御所には参る人もないのが、いかにもさびしい感じである。
         このような時に、人の心の深浅が現れるはずである。






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by kame-fukusima | 2017-07-26 05:00 | 古寺巡礼






唐招提寺の金堂を訪れた人は、誰しもその見事な円柱に心をとめるであろう。

円柱が全姿をあらわに並列しているのは、大和古寺のなかでもこの寺以外にはない。

『大和古寺風物詩』より。亀井勝一郎著




金堂円柱

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金堂(国宝)

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       風も吹きあえずうつろふ人の心のはなに、

       なれにし年月を思へば、

       あはれと聞きし言の葉ごとにわすれぬものから、

       我が世の他になりゆくならひこそ、

       亡き人の別れよりもまさりて悲しきものなれ。

       『徒然草』第二十六段より

               :風に吹かれてうつろう桜の花よりも、人の心はなおもはかないという。
                その人の心を信じて愛をかわしていた日々を思うにつけ、しみじみとした気持ちで聞いた、
                いとしい人の言葉はどれも忘れられない。
                が、そのような相手もやがて自分とは別の世界の人になってゆくのが世のならわしである。
                それは、人との死別にもまさって悲しいものである。







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by kame-fukusima | 2017-07-25 05:50 | 古寺巡礼






霧島の庭

















大楠

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長屋門

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        神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ。

        おほかた、ものの音には、笛・篳篥(ひちりき)。

        常に聞きたきは琵琶・和琴。

         『徒然草』第十六段







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by kame-fukusima | 2017-07-17 05:00 | 古寺巡礼





      会津八一歌碑
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      ちかづきてあふぎみれども

        みほとけのみそなはすともあらぬさびしさ

          大意・・・近づいて仰ぎみても、仏さまは自分を見ておられないようでさびしい
 
           
やまとの古寺を訪ねると、行く先々で会津八一の歌碑を見つけることができる。
いったい八一とはどんな人なのだろうか。
中学生時代より俳諧に親しんでいたというが、いつ頃から万葉風の歌を詠む
ようになったのかは分らない。

八一は明治十四年(1881)八月一日に新潟市で生まれた(八一の名の由来は
お分かりかと思う)。
専門は英文学で「早稲田大学」時代には坪内逍遙やハーン(小泉八雲)の講義
を受けていたという。早稲田大学を卒業すると新潟県下の有恒学舎の英語教師
となり、教鞭を執るかたわら独学で美術史を学び、その頃から奈良を訪れていた。
奈良は八一にとって特別思い入れのある土地であったようである。
当時、遠く離れて暮らす女性と交際していたと言われるが、その恋は実らずに
終わり終生独身を通した。

後に早稲田大学で英語や英文学を担当しながら、美術史学の研究をすすめ、
大正15年(1926)には早稲田大学文学部の講師として東洋美術史の講義を
始めることになった。
「学問をしてゆくに、実物を能く観察して、実物を離れずに、物の理法を
観てゆくと云うことは、何よりも大切なことだ。」
と考え、学生を連れては奈良を訪れ古美術に触れさせていた。長期にわたり
学生とともに旅館(名物女将のいた旅館で、遠い昔私も訪ねたことがある)
で寝食をともにし昼夜議論していたことであろう。

太平洋戦争時代は八一にとっても苦汁を嘗める日々を送った時代である。
戦局が不利になる昭和十八年十一月、学徒出陣する学生を募り数日間の最後の
奈良旅行を行った。
八一は学生とともに奈良を訪れて、寺々を巡り、そして戦地に送り出したという。
その心中如何ばかりか、察するに余りある。その旅行で詠んだ歌のひとつに

   かすがののこぬれのもみじもえいでよまたかへらじとひとのゆくひを

大意: 春日野の紅葉の梢よ、赤く燃え出ておくれ。二度と生きて帰らないと
学生たちが決意して戦地に出て行く日に。  
     
八一にとって奈良は、古美術や和歌に親しむうちに心のよりどころとなった土地
ではないだろうか。次の歌のように・・・

「 やまとは くにのまほろば たたなづく あおかき やまごもれる やまとし うるわし 」

※大和は国の中で一番良いところである。幾重にもかさなりあった青い垣根のような山やまにかこまれた大和はほんとうにうるわしいところである


いつの時代でも日本人は絶えることなく奈良を訪れ、心のよりどころとするのであろう。





      大斗肘木(だいとひじき)
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      二軒垂木(ふたのきたるき)
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      天平時代になると垂木は上下二段になり、下部の断面が丸い方を地垂木(じだるき)、
      上部の断面が四角い方を飛檐垂木(ひえんだるき)と呼ぶようである。
      中国から伝来した建築様式という。








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      降棟(くだりむね)には、現存最古と言われる鬼瓦を載せている。
愛嬌のある獣面である(奈良時代~鎌倉時代)。







      地蔵堂(重文・鎌倉時代)
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      鐘楼(重文・鎌倉時代)
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      香薬師堂前の庭園
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      築地の向こうに本堂入口が見える。





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      本堂より南門を望む
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      いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、めさむるここちすれ。

                       『徒然草』第十五段より








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by kame-fukusima | 2017-07-10 20:02 | 古寺巡礼




      新薬師寺へたどり着くころ、待ち望んでいた慈雨が天から降り注いできた。
      ひとしきり雨が降り、止んだ頃に青空と光芒が現れれば言うことないのだが、
      そうはうまく行かない。わずかな降雨で終ってしまった。

      新薬師寺へは三度目の来訪である。はじめて訪ねたのは寒々とした冬の寒い日であった。
      大病を患い経過も思わしくない身体で、霜の降りた道々をよくぞここまで歩いてこれたものだ。
      カメラを持ってはいたが撮影枚数は十枚にも満たなかった。
      あれから五年ほど経つが、わずか五年で高畑の道は小綺麗になってしまった。

      亀井がここを訪ねたのは昭和十年代である。
      いまここに現れたなら様変わりに驚くであろうか。亀井はいくども高畑に通ううちに、
      「古都への感傷のままに、なかば夢み心地で通るときが一番美しくみえるのかもしれない。
      ・・・私の感覚もいつしか新鮮味を失ったのか。写真にうつして眺めていた方がよさそうだ。
      乃至(ないし)は最初の印象を、思い出として心のなかで慈しんでいるのがほんとうかも
      しれぬ。」と書いている。人に対しても同じことが言えるかも知れない・・・

      

      



      本堂(国宝)
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      新薬師寺は、天平十九年(747)聖武天皇の病気平癒を祈願して、
      お后の光明皇后によって創建された。
      西の京にある「薬師寺」とは宗派が異なり、こちらは華厳宗である。
      新薬師寺の「新」とは新しいという意味ではなく霊験あらたかなの
      「あらたかな」という意味である。
       ※私は誤解してました。







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      奈良時代の建物である。当初は本堂ではなく、修法を行うためのお堂だったと
      考えられる。本堂内には円形の土壇が築かれ壇上に薬師如来座像、十二神将立像
      が安置されている。
      柱は四十本あり全て円柱である。天井を張っていないので、内側から建物の骨組み
      をじかに見ることができる。
      ( 桁行七間 梁行五間 入母屋造 本瓦葺 )     『新薬師寺』パンフレットより引用      






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      『古寺巡礼』を著わした和辻哲郎は、大正七年に新薬師寺を訪れ次のように述べている。
      「この堂は・・・今なお朗らかな優美な調和を保っている。天平建築の根強い健やかさも
      持っていないわけではない。この堂の前に立ってまず否応なしに感ずるのは、やはり
      天平建築らしい確かさだと思う。
      あの簡素な構造をもってして、これほど偉大さを印象する建築は他の時代には見られない。
      しかしこの堂の特徴はいかにも軽快な感じである。そこからくる優しさがこの堂に全面的
      に現れている。それは恐らく天井を省いて化粧屋根とし、全体の立ち居を低くしたためで
      あろうと思われる。」
                                    和辻哲郎『古寺巡礼』より引用








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      秋篠寺と比べると白い漆喰の壁面が広く取られている。
      初めて新薬師寺を訪れ、南門から境内を望んだとき、さほど広くない境内に本堂だけが
      ぽつねんと鎮座している様が印象に残っている。
      かつては「十大寺」の一つに数えられ、広大な敷地には金堂、東塔・西塔、などの七堂伽藍
      を備えていたというが、それを想像するのは難しい。
      今ではこじんまりとした静寂な雰囲気が漂い、訪れるひとを静かに迎えてくれる。









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      この扉を開けたところに、ご本尊である薬師如来座像(国宝・奈良時代~平安時代初期)が
      安置されている。材はカヤを用い手と足は寄木であるが、体幹部分と木目を合わせ一本のカヤ
      の木から丸彫りしたように造られている。
      目を大きく開き、まっすぐ前方を見ておられる。
      お側でそのお姿を仰ぎ見るとその存在感、肩幅のひろさ、胸まわりの量感には圧倒される。

      「肩から腕へかけての肉づけなども恐ろしく力強いどっしりとした感じを与える。
      木彫でこれほど堂々とした作は、ちょっと外にはないと思う。全体が一本の木で
      刻まれているというばかりでなく、作全体に非常に緊密な統一が感ぜられる」
                               和辻哲郎『古寺巡礼』より引用




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               本堂北面(裏側)
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      本堂北面
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      向こうに東門の屋根が垣間見える。







      本堂入口
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      屋根を見ると入母屋造りであることがわかる。扉は天平時代に見られる内開きの意匠である。








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      堂内に入ると、円形の土壇の上中央に南の方角を見つめるお姿の薬師如来座像、そしてご本尊
      をぐるりと取り囲むように十二神将立像が守っている。まず薬師如来にお参りし、次に時計まわりに
      十二神将立像(国宝・奈良時代・塑像)を拝観するとしよう。

      薄暗い堂内、わずかな照明の明りと扉の隙間から漏れてくる外光をたよりに、一体一体と対峙し目をこらす
      ようにして観察をする。長年待ち望んだ瞬間である。遠い過去に土門拳氏の写真で見た憧れの像である。
      想像していたより小柄なお身体、全身が石膏像のように白っぽく見えるのは、長い年月で彩色が
      劣化し剥落したものとみえる。
      今にも敵に向かってたたかう憤怒の顔と姿勢かと思いきや、意外にも静的な姿勢に見える。
      立ち姿に緊張感が見られないのである。“スキ”だらけの姿勢に見えるのだ。「どこからでも掛かってきなさい」
      という姿勢か。“武芸の達人”とはこいうものなのだろうか。それとも私の目がくもっているのか。
      最後の神将にまで進み、一番会いたかった“怒髪天を突く“のメキラ大将(バサラ大将とも)との対面である。
      右手腰辺に下げ剣を構えるメキラ大将を見て、ようやく納得できる神将像に出会えたという感じがあった。

      古美術の研究者でもある和辻哲郎は、新薬師寺を訪れた際、注目すべきは「堂の美しさよりも本尊の
      薬師像や別の堂にある香薬師像の方」と述べ、十二神将についてはひと言も論じていない。
      東大寺戒壇院の四天王については、「写実と類型化との手腕において実に優れた傑作である。」
      と述べた上、とりわけ広目天には力の入った論評をしている。さらには骨相や鎧の論究までしているのに
      である。和辻の目には、十二神将は取り立てて論じるほどではなかったということか。
       ※香薬師像は幾度も盗難にあい、未だに戻っていない。近年右手首だけが発見されたと報道があった。


      
   





      入口の扉
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      いつの時代の木材であろうか。修理の跡が見える。







      和歌こそなほをかしきものなれ。

      あやしのしづ・山がつのしわざも、いひ出でつればおもしろく、

      おそろしき猪のししも、「ふす猪の床」といへば、やさしくなりぬ。

                         『徒然草』第十四段より






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by kame-fukusima | 2017-07-09 05:00 | 古寺巡礼

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