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下北半島西海岸


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平舘海峡を青函連絡船が行き交う。この写真を掲載から外そうとしたが、今では見ることが出来ない光景なので考え直した。
遠くの山並みは津軽半島。
『下北紀行』で掲載した写真は全て50年ほど前のものです



旅行作家にして本草学にひいでた三河出身の菅江真澄のことに触れたが、彼以前にも陸奥を訪ねた著名な人物は多い。
平安時代には能因法師、能因に影響を受けたと思われる西行法師(菅江真澄は西行の足跡をも訪ねている)、時代は下がるが芭蕉もその
うちの一人だろう。
だが、菅江真澄ほど生涯の半分を蝦夷、陸奥などを旅して民衆の生活をつぶさに見て歩き、資料として第一級の庶民の生活を描き、その
意味ではこの人ほど近代日本人に影響を与えた人物を僕は他に知らない。
柳田国男にして日本「民俗学の祖」と言わしめた人物である。

越後には『北越雪譜』を著わした鈴木牧之という菅江真澄の業績と似通った人がいたが、牧之とは著作数も違う上に対象の範囲が全く違う。
菅江真澄の著作物は二百とも言われ桁外れに多いのだ。
どこかの間者と間違えられ、お抱えになっていた津軽藩からは、著作物を没収された上お役御免にもなっている。一体どうやって生計
を立てていたのかと疑問も残るが、それだけ本草学や医師としての心得もあり、諸藩や各地の名士に重宝されたのであろう。

ところで明治十一年(1878)に英国人女性イザベラ・L・バードという旅行作家(写真家・地理学者)が日本を訪れ東北・蝦夷地を旅し
『日本奥地紀行』を著わし、主に北日本を欧米に紹介した人物がいたことを知っているだろうか。当時、その全行程を馬あるいは徒歩で
踏破したヨーロッパ人はだれ一人いなかったという。外国人には東北・蝦夷地の情報を得るにも全くと言ってよいほど得られない状況で
あった時代にである。
少し長くなるが当時の青森地方の農民の生活を記述したところがあるので紹介してみたい(『日本奥地紀行』は西日本のことも載っている
完全版が良い。イザベラ・バードは日本だけではなく朝鮮半島、ロシア・中国の一部、アメリカロッキー山脈をも踏破している。
なかでも『朝鮮奥地紀行』は私のお気に入りである)。


黒石にて・・・「途中通ったいくつかの農村の人々は非常に原始的な家に住んでいた。まるで木の枠組みに手で土を塗りつけたような土壁
の露出する家だった。その壁は内側にやや傾き、草葺きの屋根は粗末であり、軒は深く、軒下には木材(煮炊きの燃料と思われるーkame)
が実に雑然とうず高く積んであった。
煙出しのある家はほとんどなく、たいていの家では、まるで英国のレンガ焼き窯のように、至る所から煙が出ていた。窓はなく、壁も垂木
も黒光りしていた。薄暗い家の中は二つの部分に分かれており、一方には鶏や馬が、他方には人間が住んでいた。家の中は素裸の子共で
いっぱいだった。
そして夕方再び通りかかった時には、男女の別なく諸肌になった大人たちが家の外に座り込み、その傍らにはお守りだけを身につけた
素裸の子供たちと数匹の大きな黄色い犬がいた。犬もまるで家族の一員のようで、犬の顔も、子供の顔も、大人の顔も、すべての顔が穏やかで、満ち足りた感じがした!
たくさんの良馬を所有しており、豊かな作物にも恵まれている。祭の日にはきっと、たくさんもっている着物の中から選んだもの〔晴れ着〕
を着るのであろう。身の回りのものに関する限りそんなに貧しいとは思えない。非常に辺鄙なところに住んでいるだけのことである。彼らは
これ以上の暮らしを知らず、現状に満足している。ただ、その住まいはこれまで見たもののうちで最もひどく、この素朴な楽園(エデン)の
人々は土埃にまみれていた。週に一度沐浴するのかどうかさえも疑わしいほどだった。」


紹介した文は、僕が訪ねた時を遡ること90年ほど前の話である。大昔の話ではないのだ。作者は、農民の置かれている状況は作り話ではなく、事実を明らかにしようとしただけである、と著書の“はしがき”で述べている。















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by kame-fukusima | 2017-08-28 05:00 | 旅行記







仏ヶ浦(8)


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              沖合に青函連絡船らしき船影が見える。平舘海峡の向こうに見える山並は津軽半島。



いよいよこのシリーズは終りに近づいた。15回くらいの掲載を予定していたのだが、50年近く眠っていたネガなのでシャバの空気
を吸わせて上げたく、親としては取捨選択が難しかった。それで同じような写真ばかりになってしまったのである(ご勘弁を)。
撮影後自家現像はしたがベタ焼きを作っただけで終ってしまった。通常は気に入ったネガは六ツ切にプリントするのだが、それを
していなかった。
今回掲載するにあたり23インチの画面で見てみると、「いいじゃないか」と思うものが何枚かあったのである。先輩が「ネガは全数
手札サイズで焼く」と言っていた意味が今にして分ったのである(^^;)








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by kame-fukusima | 2017-08-27 05:00 | 旅行記







仏ヶ浦(7)


































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下北半島というと本州最北の地・辺境というイメージがあるかもしれない。一面真実ではあるだろうが、海路を利用すれば交通の
利便はそう悪いとは言えないのだ。菅江真澄が下北半島を訪ねた時代は北前船の寄港地として大間、佐井、脇野沢、田名部など
幾つかの港があり、交易で裕福な人々がいたことが分る。上方の情報や文化も北前船が持ち込んでいた。
主な産業は漁業、林業であるが、忘れてならないのは南部馬の産地であることだ。半島の津軽海峡側には「牧」と呼ばれる放牧地があり、
足腰のしっかりした農用馬を産出していた。積雪期はどうしていたかというと、親馬は放牧したままなので飼料となる草はろくに無い
ので磯に行き海藻を食べるという。そういう育て方の方が強い馬になるという。僕の幼い頃は馬とひとつ屋根の下で暮らし(いつの時代
やねん、とツッコミは無しね)家族同様に大切に扱っていたのでこれは信じがたいことだ。
米は作付けはできないので漁民は穀物といえば主にヒエを食べていたようだ。天明の飢饉のころは相当餓死者が出たという話を脇野沢
あたりの老婆から聞いて真澄は涙を流している。

仏ヶ浦のある西海岸は平舘海峡に面しているので、冬季は西風が強く吹き、海は荒れて北前船などが難破しては人が流されて来たという。
まだ息のある人がいても狼が来ては人を襲い、海岸には赤く引きずった跡が残っていたというから、海路は恐ろしい。







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by kame-fukusima | 2017-08-26 05:00 | 旅行記





戒 壇

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金堂の西にある戒壇は僧の授戒が行われる場所である。地震や火災により戒壇堂を失うが、
昭和53年に石造の戒壇の最上段にストゥーパが築かれて現在の姿になった。
天平宝字三年(759)戒律の専修道場として律宗総本山唐招提寺が創建された。

戒を授かり僧となるには、三人の師と七人の証人の僧の下で戒律を理解し守ることを誓い、
戒を受けて初めて国家承認の僧侶として認められるという。









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門よりストゥーパを望む








開山堂(平成の御影像奉安所)

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開山堂は、国宝の和上像が御影堂へ移されたのち、年間数日しか開扉しない和上像に代り、
毎日参拝していただく目的で「御身代わり像」が制作され安置されている。階段左側には芭蕉の句碑がある。







松尾芭蕉句碑

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若葉して おん目のしずく ぬぐはばや

かつて開山堂に和上の御像を拝したときの句である。








鑑真和上御廟入口

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奥にわずかに見える門は東門。門を出ると秋篠川が北から南へ流れている。








参 道

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参道の両側には苔庭が広がり、悠久の時を感ずることができる。









御廟(御廟北側より撮影)

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    日本仏教界の戒律の乱れを正すため聖武天皇が鑑真和上を招聘、受戒戒律のことはひとえに和上にまかされた。
    それをこころよく思わない我が国の僧や貴族もいたであろう。それに対しては、六度目の渡航に成功したように
    不撓不屈の精神で臨んだのに違いない。
    和上とその弟子たちの日本へ寄与した影響は小さくはない。
    享年七十六歳 天平宝字七年(763)五月六日示寂 












                               金 堂

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     今の内裏作り出されて、有職の人々に見せられけるに、いづくも難なしとて、すでに遷幸の日ちかくなりけるに、

     玄輝門院御覧じて、「閑院殿の櫛形の穴は、まろく、縁もなくてぞありし」と仰せられける、いみじかりけり。

     『徒然草』第三十三段より






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by kame-fukusima | 2017-08-01 11:31 | 古寺巡礼

京都と各地で見かけた光景を投稿します。リンクは自由です。


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