不幸に愁に沈める人の、

   頭(かしら)おろしなど、

   ふつつかに思ひとりたるにはあらで、

   あるかなきかに門(かど)さしこめて、

   待つこともなく明し暮したる、

   さるかたにあらまほし。





  寂光院本堂(焼失前)
f0374885_18010477.jpg
  撮影年月:1990年3月



建礼門院は、東山の麓、吉田のあたりへおはいりになられた。そこは中納言法印慶恵という
奈良法師の坊であった。
住み荒らして年久しくなったので、庭は草深く、軒には忍草が茂っていた。簾(すだれ)はきれて
閨(ねや)もあらわに見え、雨風の防ぎようもない。
花はとりどりに咲いているが、主とたのむ人もなく、月は夜ごとにさしこむが、ながめてあかす主もない。


都に近いこのお住居は、行き来の人々の目にもふれがちなので、露の御命を吹きちらす風をまつばかりの
わずかな間ばかりでも、憂きことを聞かずにすむ深山の奥へ隠れたいと思うが、さてどこにもたよるべきところがない。
すると、ある女房が、吉田に来て、
「これより北、大原山の奥に、寂光院と申す静かな所がござります」
と教えたので女院は、
「山里はものさびしいにちがいはないが、都に近くいて憂きことを聞くよりは、まだしも住みよくありましょう」
とお思い立ちあそばされた。・・・文治元年〔1185〕九月の末に、かの寂光院におはいりになった。
『平家物語』より引用


「奈良法師の坊であった」という寺はどこにあったのだろうか。「東山のふもと」と「吉田のあたり」というヒント

が出ている。しかし東山といえば北は如意が岳(その麓には、私のブログ名の由来・東求堂がある)から、南は伏見稲荷の

山まで三十六峰七里を越える範囲と長い。吉田といえば吉田山が真っ先に頭に思い浮かぶが離れているではないか。

いったいどこであろう、と考えていたら夜も眠れなくなってしまった。

朝の日課であるフイルムスキャンを早々と終え、答えを出したく急遽寂光院へ向かった(今日のことである)。

寺へ着いたはよいが相変わらずの混雑、百名ばかりの団体さんが蝗のごとく押しかけ、そして稲穂を食い尽くすがごと

く去って行った。

たまたま外に居られた院主さまと挨拶を交わし、傍らにいた作務衣姿の若き尼僧と覚しき方に『平家物語』女院出家の

場面にある寺は何処に、と尋ねれば「・・・かしこに今でもありまする」と、平安貴人のようにのたまう。もしや阿波内侍

(あわのないし)の生まれ変わりではないかと訝しく思っていたところ、院主さまとともに去って行かれた。

意外であった。

物語であるし、内心は架空の寺ではないかと思っていたからである。訪ねたことはないが、そこは近くて遠い所であった。

所と寺の名は、今は伏せておこう。寂光院を訪ねれば分ることである。


それにしても建礼門院さまは、壇ノ浦合戦でともに安徳天皇と入水を図り、そして自らの命だけは助かり、

(お子である安徳天皇を失い)そして源氏に敗れた結果が二十九歳での出家という道をたどり、その数年後には

早くも人生を終われてしまった。

なんと “露のように儚い“ いのちであることよ。
 
それにつけても『平家物語』冒頭が思い出される。



   祇園精舎の鐘の声、

   諸行無常の響きあり。

   娑羅双樹の花の色、

    盛者必衰の理をあらわす。

    おごれる人も久しからず、

       唯春の夜の夢のごとし。

      たけき者も遂にはほろびぬ、

      偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。



















[PR]
# by kame-fukusima | 2017-05-17 21:07 | 古寺巡礼