世の人の心まどはす事、色欲にはしかず。

   人の心は愚かなるものかな。

   匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、

   えならぬ匂ひには、必ず心どきめきするものなり。





   寂光院山門
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   本堂側から望む山門には、また違った趣がある。以前は結界が設けられており、ここを通ることは出来なかった。
   向かって左側の木は菩提樹。








   本堂前の庭園。
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   植込みにある南蛮鉄の雪見灯籠は、豊臣秀吉公の寄進により伏見桃山城より移されたと伝わる。








   鐘楼
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   汀(みぎわ)の池北側にある諸行無常の鐘楼。
   梵鐘は宝暦二年(1752)江戸時代の作である。








   茶室・孤雲の門
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   山門前、参道南側に入口と待合がある。








   御庵室遺跡に通じる小道
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   以前は公開されてはいなかった。是非ともお立ち寄りを勧める。

   寂光院のそばに一丈(約三メートル)四方の御庵室をつくり、一間を仏間に定め、
   一間を御寝所にしつらって、朝夕の御勤行や長時不断の御念仏を怠ることなく、
   月日を送られていた。
   『平家物語』より引用








   御庵室遺跡

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  後白河法皇が建礼門院さまの御庵室におはいりになって、襖をひきあけてごらんになると、襖には、

   思ひきや み山のおくに住居して 雲井の月を よそに見むとは(建礼門院) 
 
   としたためられてあった。そのそばは、建礼門院の御寝所と見え、竹の竿にの御衣、
   の御寝具などがかけられ、本朝漢土の粋を集めた、綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の御衣裳も、
   今は昔の夢と消え果ててしまっている。
   一部『平家物語』より引用







   建礼門院さまご使用の井戸遺跡
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   大原西陵入口
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            大原西陵参道
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             参道は長い石段が続く








   大原西陵
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   建礼門院徳子さまの墓所








   西陵の西に翠黛山の稜線を望む(手前の屋根は寂光院)

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   翠黛山には阿波内侍らの墓地がある。

   後白河法皇の突然の大原御幸の際、建礼門院さまがこの山に花摘みに行かれていた。
   「世をいとい出家した身とはいいながら、いまこのようなありさまを
   お目にかけることのはずかしさ、消えも入りたき心地ぞ」
   といい途方にくれて佇んでいた山である。









   侍従の墓地入口
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   翠黛山侍従の墓地参道
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   ここを訪れる人は稀である。








   侍従の墓地正面
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   墓地を山手側(裏側)より望む。一番左側が阿波内侍の墓と思われるが判然としない。

   撮影を続けていると、後ろの山の方から、それもそう遠くはない所から、

   篠笛のようなピーッという獣の鳴き声がひと鳴き聞こえてきた。

   どこかもの悲しくもあり、懐かしい感じもする鳴き声である。そう思わせる鳴き声なのが不思議である。

   声の主である獣を記憶の糸をたぐってみると、漸く思い出すことができた。

   それは牝鹿の鳴き声(警戒音)であった。

   
   夕方、庭に散りしく楢の葉をふみしだく音が聞こえたので、女院は、
   「世をかくれている者のところへ、何びとがたずねてきたのか、
   会うてならぬ者ならば、隠れます。佐(すけ)の局(つぼね)、見てきてくだされ」
   局が行ってみると、小鹿が通る足音であった。
   『平家物語』(中山義秀 訳)より引用。奇しくも中山義秀氏と私は、同じ在所の生れである。

   










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by kame-fukusima | 2017-05-23 21:36 | 古寺巡礼






  あだし野の露消ゆる時なく、

  鳥部山の烟り立去らでのみ住み果つる習ひならば、

  いかに、もののあはれもなからん。

  世はさだめなきこそ、いみじけれ。






   寂光院本堂
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   本堂は平成十二年(2000)焼失したがその後再建された。
   新たに復元された本尊が本堂に安置されている。







   寂光院入口
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            参道
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            山門を前に石段参道の両側にはモミジの古木がある。秋には見事に紅葉する。







   山門
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   向こうに見えるのは本堂である。









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   山門を宝物殿から望む。








   本堂
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   寂光院は天台宗の尼寺で山号は清香山、寺号を玉泉寺という。
   推古二年(594)、聖徳太子が御父用明天皇の菩提を弔うために建立された。
   本尊は六万躰地蔵尊。
   建礼門院徳子さまは第三代の院主で、滅亡した平家一門とわが子安徳天皇の菩提を弔い、
   終生をこの地で過ごされ閑居御所とされた。







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by kame-fukusima | 2017-05-22 20:01 | 古寺巡礼







   わが身のやんごとなからんにも、

   まして数ならざらんにも、

   子といふものなくてありなん。





   高野川
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   京都バスの終点大原で降り寂光院へ向かう。途中には高野川を渡る小さな橋が架かっている。
   清らかな流れからはカジカガエルの涼しげな鳴き声が聞こえてきた。
    高野川と賀茂川が下鴨で合流し鴨川と名を代える。




   寂光院への道

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   川を越え、少し歩くと左手に小さな田圃が見えてくる。十年ほど前までは、
   この辺り一帯が田圃ばかりであったが今では少なくなってしまった。
   中央に見える一段低く見える山が比叡山である。






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  道すがら四方のこずえがとりどりに色づいているのを見ながら行くうち、
  山陰のせいか日もすでに暮れかかってきた。
  野寺から聞こえてくる入相の鐘の音がものさびしく、踏み分ける草場の露に御袖はしとどにぬれ、
  山風がはげしく木の葉が乱れ飛び、空はかきくもっていつしか時雨れてきた。
  『平家物語』大原入りの巻より引用





   朧の清水
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   寂光院へ向かう道すがら、山手の灌木の下にある小さな湧き水。建礼門院さまが京都から寂光院へ移る際、
   この清水のあたりで日が暮れ、朧月夜によって自分の姿がこの水溜りに映った。
   そのやつれた姿を見て身の上を嘆いたという話が伝えられている。
   『平家物語』大原入りの段にはその描写は見当たらない。

   私が人生の師匠と仰ぐ人物のひとり吉田兼好は、
   「大原やいづれ朧の清水とも知られず秋はすめる月かな」
   と詠んでいる。

   左の石碑には “おぼろのしみず“ と刻まれているがいつの頃からあるのかは不明。






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   再び左手に田圃が見えてきた。寄り道していこう。






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   山の中央に谷筋が見える。その東側の山の中腹に寂光院と大原西陵がある。





   寂光院隣家の石垣
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  耳、目に触れるかぎりがみな悲しく、御心細さはたとえようがない。
  浦づたいも島づたいもしたけれど、さすがにこれほどではなかったと、
  思われるばかりだったが、目ざす寂光院はしかし岩に苔むしてものさび、
  ここならば住んでみたいという気をおこされた。
  『平家物語』大原入りの段より引用





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   寂光院への道すがら新緑と木漏れ日が綺麗であった。



木々のこずえがとりどりに色づいてきた季節に、建礼門さま一行は寂光院を目ざし、

都から歩かれたのであろう。日は短く、夕暮れにようやくたどり着いたに違いない。

今でこそ東海道の西の起点である三条大橋からバスで四十分ほどで行けるが、

平安の貴人の足では、ぬかるんだ山あいの道を都から一日は掛けて歩いたのではなかろうか。

道路事情の良くなった今でも、私の足では片道四時間はかかるであろう。

それから考えると、“大原女“ は毎日のように、頭の上に柴や炭などを乗せて都との間を往復していた

のであるから、相当つらい仕事であったことと思う。






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by kame-fukusima | 2017-05-19 21:06 | 古寺巡礼






   不幸に愁に沈める人の、

   頭(かしら)おろしなど、

   ふつつかに思ひとりたるにはあらで、

   あるかなきかに門(かど)さしこめて、

   待つこともなく明し暮したる、

   さるかたにあらまほし。





  寂光院本堂(焼失前)
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  撮影年月:1990年3月



建礼門院は、東山の麓、吉田のあたりへおはいりになられた。そこは中納言法印慶恵という
奈良法師の坊であった。
住み荒らして年久しくなったので、庭は草深く、軒には忍草が茂っていた。簾(すだれ)はきれて
閨(ねや)もあらわに見え、雨風の防ぎようもない。
花はとりどりに咲いているが、主とたのむ人もなく、月は夜ごとにさしこむが、ながめてあかす主もない。


都に近いこのお住居は、行き来の人々の目にもふれがちなので、露の御命を吹きちらす風をまつばかりの
わずかな間ばかりでも、憂きことを聞かずにすむ深山の奥へ隠れたいと思うが、さてどこにもたよるべきところがない。
すると、ある女房が、吉田に来て、
「これより北、大原山の奥に、寂光院と申す静かな所がござります」
と教えたので女院は、
「山里はものさびしいにちがいはないが、都に近くいて憂きことを聞くよりは、まだしも住みよくありましょう」
とお思い立ちあそばされた。・・・文治元年〔1185〕九月の末に、かの寂光院におはいりになった。
『平家物語』より引用


「奈良法師の坊であった」という寺はどこにあったのだろうか。「東山のふもと」と「吉田のあたり」というヒント

が出ている。しかし東山といえば北は如意が岳(その麓には、私のブログ名の由来・東求堂がある)から、南は伏見稲荷の

山まで三十六峰七里を越える範囲と長い。吉田といえば吉田山が真っ先に頭に思い浮かぶが離れているではないか。

いったいどこであろう、と考えていたら夜も眠れなくなってしまった。

朝の日課であるフイルムスキャンを早々と終え、答えを出したく急遽寂光院へ向かった(今日のことである)。

寺へ着いたはよいが相変わらずの混雑、百名ばかりの団体さんが蝗のごとく押しかけ、そして稲穂を食い尽くすがごと

く去って行った。

たまたま外に居られた院主さまと挨拶を交わし、傍らにいた作務衣姿の若き尼僧と覚しき方に『平家物語』女院出家の

場面にある寺は何処に、と尋ねれば「・・・かしこに今でもありまする」と、平安貴人のようにのたまう。もしや阿波内侍

(あわのないし)の生まれ変わりではないかと訝しく思っていたところ、院主さまとともに去って行かれた。

意外であった。

物語であるし、内心は架空の寺ではないかと思っていたからである。訪ねたことはないが、そこは近くて遠い所であった。

所と寺の名は、今は伏せておこう。寂光院を訪ねれば分ることである。


それにしても建礼門院さまは、壇ノ浦合戦でともに安徳天皇と入水を図り、そして自らの命だけは助かり、

(お子である安徳天皇を失い)そして源氏に敗れた結果が二十九歳での出家という道をたどり、その数年後には

早くも人生を終われてしまった。

なんと “露のように儚い“ いのちであることよ。
 
それにつけても『平家物語』冒頭が思い出される。



   祇園精舎の鐘の声、

   諸行無常の響きあり。

   娑羅双樹の花の色、

    盛者必衰の理をあらわす。

    おごれる人も久しからず、

       唯春の夜の夢のごとし。

      たけき者も遂にはほろびぬ、

      偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。



















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by kame-fukusima | 2017-05-17 21:07 | 古寺巡礼