十三湊と縄文亀ヶ岡遺跡・三内丸山遺跡のはなし



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「十三の砂山 米ならよかろ

のぼる大船人(ベンザーシュ)にゃ  ただつませょ」


寛政八年(1796)、菅江真澄は十三湖東岸より西の方を見て「北方に遠く眺め
られる低い赤土の山は、どこの何という山か」と土地の人にたずねた。すると、
うしろから馬にむちうって走り過ぎようとした者が歌をうたった。それが"十三
の砂山"だったという。


"遮光器土偶"で有名な亀ヶ岡遺跡は、ここより少し南にある。
かつて(中世鎌倉時代)この周辺には、数多くの寺院と城があったことが
分っている。近年都市遺構の発掘も進んでいると聞く。
私が訪ねたころ、それが想像できないほどに さびれてしまっていた。

菅江真澄は小泊から十三を通り、鰺ヶ沢に向かう。途中、堂の前と呼ばれ
ている「このあたりの土を掘ると、瓶子、小甕、小壺……むかしの土器の
かたちをした器を掘りだすことがある。それで、ふるく瓶が岡(亀ヶ岡)
の名があった……」と書き記しこの村に宿を求める。その家の主は缶(ほ
とぎ)の形をした小瓶につばを吐いたという。その器こそ亀ヶ岡遺跡から
の出土品であろう、と真澄はいう。江戸時代、すでに亀ヶ岡遺跡からの出
土品は珍重され、江戸で数寄者に人気があったというから驚く。やはり分
る人にはわかるのである。その時代になんと海外にまで渡っていたとか…

後年(といっても現代の話)、考古学の研究者が『菅江真澄遊覧記』を読
み、「堂の前」という地名をたよりに地面を掘ったら遺跡が出た、という
一見つくり話のような本当の話がある。

ついでながら述べておくが、菅江真澄は三内丸山遺跡のことも『菅江真澄
遊覧記』第三巻「すみかの山」の中に書いているのだ。
「このあたりで有名な三内の桜を見ようと……三内村にきた。……この村
の古い堰の崩れたところから、縄形、布形の古い瓦(縄文土器)、あるい
は、かめのこわれたような形をしたものを発掘したといってあるのを見た。
陶作(すえつくり)
がここに住んでいたのであろうと言っている。また、
人の頭、仮面などのかたちをした出土品もあり、また頸鎧(みかべのよろ
い)に似たものもあった。」と。すでに寛政八年(1796)には、三内丸山
遺跡のこ
とを知り、記録として後世に残していたのだ。

やはり菅江真澄はただ者ではない。柳田国男氏をして「日本民俗学の祖」
である、と言わしめた人物であるのだ。



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by kame-fukusima | 2018-10-16 10:49 | 津軽半島を歩く